お泊まりになったお客様の80代男性の方々は、終戦間際の昭和20年8月、長野県内の軍需工場で働き、そこで仕事場を共にした女性のお仲間が愛知県豊川市内の軍需工場で戦火を受け、多数の方がお亡くなりになりました。
お客様たちは、その悲惨な出来事に心を痛め、少なからずご縁のあった方々の霊を慰めたいと、金沢にお越しになった機会を利用して、金沢・卯辰山にある慰霊の塔を訪れ、手を合わせられたのでした。
お客様の胸の内には今もなお戦争の生々しさが残るご様子。節目の時を迎え、人の命の大切さ、平和の尊さをかみしめたことでした。
(戦時中のことを回想される旧制飯田中学校の卒業生の皆さん
=写真掲載了解済)

(出版された書籍『中学校が軍需工場になった』)

今回お泊まりになったお客様は、長野県の旧制飯田中学校(現飯田高校)を卒業された方々です。この方々は在学中の昭和20年、学校の一部が軍需工場となりました。そこで勤労奉仕することを余儀なくされ、軍事製品の生産に当たられたそうです。
その学校併設の軍需工場は、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠(工場)の一部が移転(疎開)したもので、その関係から豊川のその工場の従業者女性(挺身隊と呼ばれました)の一部が飯田の軍需工場で働くことになったのでした。
当時、中学生でありながら、その飯田中学校の軍需工場で働いたお客様たちは、同じ工場内で働いたうら若い女性のことを今も鮮明に覚えておられます。そして、そのお仲間が実は、大戦が終わるわずか1週間ほど前の8月7日に、豊川の工場が米軍の爆撃を受け、多数亡くなったのでした。
その中には、石川県出身者が多数含まれており、今回あかつき屋にお泊まりになった旧制飯田中学校の卒業生の皆さんの金沢訪問の大きな目的が、無念の死を遂げた若き女性たちの霊を慰める、殉難おとめの像を訪れることでした。
今回の金沢の旅については、旧制飯田中学校卒業生で、現在金沢ご在住の堅田仁さん(85歳、天神町ご在住)がお世話されました。堅田さんら飯田中学同窓生はお泊まりの夜、昨日のことのように、学校併設の軍需工場で働いた日々のことを語られました。そして、その工場内で共に汗して働いた、当時10代後半の若い女性たちのこともしっかりと覚えておられました。
まだ年若い少年時代。まして、戦時下とあって、心の余裕もなかったのですが、友達の中には、彼女らに淡い思いを抱いた人もいたようです。
その当時のことは一昨年、『中学校が軍需工場になった 長野県飯田中学校生徒たちの昭和20年(1945)春夏』という本にまとめられ、出版されました。そんな本も手元におきながら、あかつき屋でお客様たちは、夜遅くまで、過酷な環境下、必死に生きた戦時中のことを語っておられました。
(出発の朝、おとめの像がある卯辰山に向かわれました。右から3人目が西村さん)

金沢ご在住の堅田さんは戦後、思いがけないご縁から豊川の軍需工場で働いた女性と金沢市内で知り合われました。そのお一人が西村八重子さん(90歳、東山ご在住)で、24日朝、堅田さんら旧制飯田中卒業生とご一緒に、卯辰山にある、おとめの像に向かわれました。
(おとめの像の前で手を合わせられました)

緑濃い丘の上に建つおとめの像。その像の前に立ったご一行は、手を合わせ、若くして人生を閉じた50余名の乙女たちの冥福を静かに祈ったのでした。
歴史の生き証人とも言えるお客様を通じて、知った戦後史。そして、人生の出会い、めぐりあい。生の重み、深みを感じる数日間でした。