島のあちこちにアート作品が置かれ、それらは見る人の心を明るくしたり、なごませたりします。冬の日とは思えないほどに、青空が広がったこの日、島歩きはとても楽しいものでした。
(海岸に設けられたカモメのアート作品)

佐久島は、他の多くの離島がそうであるように、人口の減少と高齢化に悩んできました。昭和20年代まで千数百人いた人口も、年ごとに減る一方。幾たびか、島おこしの取り組みがあったそうですが、島民の気持ちがそろわなかったこともあり、軌道に乗ることはありませんでした。
その流れに終止符を打ったのは、時代が平成に入ってからでした。平成6年と8年に国土庁(現在の国交省)の支援を受けて、本格的に島おこしがスタート。
その活性化の切り口にしたのがアートでした。
(島のあちこちに置かれたアート作品)




(海岸には、おひるねハウスというアートも)

しかし、その取り組みもすんなりいった訳ではありませんでした。若手芸術家らが手がけた現代アートは、見る人によっては、奇異に映り、違和感を覚えた島の長老らからは、反対の声が上がったそうです。
それでも、島外からのボランティアを交えた地道の取り組みが少しずつ、島の人たちに理解されるようになっていきました。何より大きかったのは、アートを利用して、長年途絶えていた、島の祭り太鼓を復活させたことでした。それは、島おこしの大きな起爆剤になりました。
島に昔から息づく伝統の太鼓。それがよみがえったのですから、アートへの理解と共感が一気に広がりました。祭り太鼓は今では、毎年10月に開く太鼓フェスティバルに発展し、島の人口の倍以上の600~700人の観光客を迎えているそうです。
景観への取り組みは、野外アートにとどまりませんでした。島の西地区では、家屋の外壁に昔から塗られていた黒色をさらに強調する形で、外壁にコールタールを塗り、「黒壁」の集落をアピールしました。
その重厚な家並みは、見る人の心の中に何とも言えない重量感を与えるものでした。今では、島を代表する景観の一つとされ、島が「三河湾の黒真珠」とも呼ばれるようになりました。
(西地区の黒壁の家並み。「三河湾の黒真珠」と言われます)

気軽な散策のようなスタイルで歩いた島めぐり。最終目的地の弁天サロン近くにある島の案内看板に、おもしろい表記を見つけました。
(案内板に「白山社」の表記を見つけました)

地図上の丘陵地に「白山社」の記しがされているのです。「こんなところにも、日本三名山の一つ霊峰・白山の信仰が届いていたのだろうか」
私は、案内して頂いた西尾市佐久島振興課の男性職員の方に尋ねました。
「加賀の白山は、この神社から見えるのですか」
「(白山は)ここからは見えませんね」。
「やっぱり」。
でも私の中には、不思議さとともに、どこか懐かしさとうれしさが生まれ、そんな気持ちを胸にとどめて、帰りの船に乗り込みました。
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