藩政時代、金沢城を守るために、近くに土居や堀があったというのです。それについて説明する案内板が少し下りたところにあるというので、その男性に導かれてそこまで行きました。その案内板は、小さな公園の前にあります。
案内板には、「市史跡 金沢城惣構跡~東外惣構~」と記されています。
(金沢城惣構跡を紹介する案内板)

この案内板は、お客様を兼六園までお連れする際、必ず通る道の脇にあるので、その存在はよく知っています。説明文も既に読んでいるので、内容については承知していましたが、図示されている東外惣構や土居などの場所は、もう一つ判然としませんでした。
私をここまで連れてきて下さったこの男性。私がこれまで抱いていたモヤモヤを晴らして下さいました。
「昔、土居が、銀木犀のある駐車場の周囲にあったんやわ。でも10年ほど前かな~、壊されてしまって、今はその面影はなくなってしまったわ」。
土居とは、何のこと?それは、土手のように土盛りしたもので、案内板によると、藩政時代、金沢城の防御施設として造られました。土居には、敵の侵入を防ぐために、竹や木が植えられたそうです。その男性は、この土居の存在を自宅のすぐそばで見て知っていたのでした。
この土居のさらに外側には、お堀も築かれました。金沢城の東の方角に当たるこの界隈には、東外惣構と呼ばれるお堀が造られました。
案内板では、お堀の幅は築造当時、10㍍以上もあったそうです。しかし、藩政中期頃から徐々に幅が狭められ、現在は水路になっているとのことでした。
(賢坂橋の下を流れる水路。かつてこの流れに沿って金沢城惣構があったのでした)

この水路が、これも毎日のように通る賢坂橋の下を流れるものだと、その男性は教えて下さいました。「これが、そうなのか」。その説明で、これまで胸にあったもどかしい気持ちが解消されました。
「その水路の上に石垣があるでしょ。これも、藩政期に造られたもんなんですよ」。その男性は、さらに説明を加えて下さいました。やはりそうなのか。この古びた石の組み合わせは、想像した通りでした。
男性は、さらに続けます。「この(東外惣構の跡の)水路のところどころには、石垣が残っているところがある。水路の上(かみ)の方には、木曽坂があるんやは」。
金沢市街地の中で、独特の趣がある、あの木曽坂に通じるのか。
この男性の話を聞いていると、いっぺんに歴史ロマンに引き込まれました。
あかつき屋から兼六園へ行く道、ぐっと楽しみが増しました。
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