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あかつき太郎の町家日記

金沢町家ゲストハウス あかつき屋をめぐる出来事や思い、人とのふれあいなどをつづるブログ。街角の話題や四季折々の風情も紹介していきます。

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滋賀・近江八幡の広済寺さん訪問

慌ただしい師走の中、過日お休みを頂いて滋賀県近江八幡市まで遠出しました。ここに、あかつき屋の前のお寺・広済寺さんの本家筋に当たる浄土真宗本願寺派武作(むさ)寺・廣済寺さんがあり、そこを訪れるためでした。

金沢の広済寺さんについては先日、長年使用されてきた梵鐘の表面に、同寺が尾山御坊にあった時のことなどの史実が刻まれていることが分かったことから、その鐘が辛うじて処分を免れたという出来事がありました。

この鐘に記された文章の解読に当たった元日本史教諭中田隆二さん(62)=金沢市高坂町=が、広済寺さんの各種古文書を調査した際、このお寺の本家に当たる近江八幡の廣済寺さんに所蔵されている古文書を調べる必要性を感じ、近江八幡への訪問を計画、私もそれに同行させてもらったのです。

(近江八幡市の浄土真宗本願寺派武作寺・廣済寺)
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(境内に建つ親鸞聖人像)
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近江八幡の廣済寺は西暦593年、聖徳太子が地元の武河綱に命じて伽藍を建立したのが始まりとされています。浄土真宗本願寺派の中でも、枢要な地位を占める古刹です。

金沢の広済寺さんは、文亀元年(1501年)3月15日に蓮如上人の命を受けた近江八幡の廣済寺十代厳誓房祐念の二男祐乗坊が、本山の別院・尾山御坊の看坊職として派遣されたのが創立の起源です。

金沢の広済寺さんの古文書を紐解いて調べている中田さんは、こうした経緯を踏まえ、尾山御坊があった当時の金沢の宗教的状況を詳しく把握したいと、より広範な史料を求め、近江八幡行を思い立ったのでした。

近江八幡の廣済寺さんに到着すると、武(たけ)敏信ご住職が私たちを出迎えて下さいました。ご住職は、金沢の広済寺さんの坊守さんの実のお兄さんです。

(古文書を調べる中田さん=右と、廣済寺の武ご住職、そして奥様)
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早速ご住職は私たちに各種古文書を見せて下さいました。中田さんは、それを広げて、真剣に見ておられました。広済寺さんの古文書に記載されていることが、このご本家にある古文書でも同様に記されていれば、様々な出来事の信ぴょう性が高まると、中田さんは考えています。

中田さんは、ざっと史料に目を通しただけで、今回の訪問の目的が達せられるのではないかと、手ごたえを感じたご様子でした。
中田さんは、このお寺で史料をじっくりと見る時間がないので、お目当ての文献をデジカメで漏らさず撮影されました。

一方、私はこのお寺周辺を散策。お寺が地域の中心的存在であることを示すように、一帯は「武佐町」という町名がつけられ、お寺の隣には、武佐小学校がありました。

    お寺の前の通りは旧中山道
(歴史的建造物が立ち並ぶ旧中山道の通り)
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(本陣跡も)
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そして、出色なのは、お寺の前の通りが旧中山道となっていることです。この街道の66番目の宿場で、「武佐宿」と呼ばれています。
その通りには、歴史的建造物が軒を並べ、古民家を利用した「いっぷく処」あり、本陣跡の建物ありで、落ち着いた雰囲気。観光客の街歩きのコースにもなっていると、本家・廣済寺のご住職が教えて下さいました。

かつて近江の商人が移り住んだことから、町ができたと言われる、現在の金沢・近江町市場界隈。この例を挙げるまでもなく、金沢は近江(滋賀県)とは、古くから結びつきがあります。
今回、近江八幡での訪問では、さらに宗教の面でのつながりが強いことを再認識しました。

近江八幡、そして金沢の二つの広済寺さん、この度は大変お世話になりました。ありがとうございました。

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