この鐘は実は、ひび割れがあることが昨年見つかり、今年10月に新しい鐘と世代交代し、処分されることになっていました。しかし、その寸前にこの鐘の表面に記されてる文章が、尾山御坊の時代からの歴史が刻印されている貴重な歴史遺産であることが専門家の調査から分かり、お寺は「溶かされる寸前」に、売却先の高岡の銅器メーカーから取り戻したのでした。
歴史家から文化財的な価値があると評価された梵鐘。今は、お寺境内に新設された台座に置かれ、「第二の人生」を歩み始めました。
(高岡の銅器会社から戻ってきた広済寺さんの梵鐘)

(真新しい台座の上に据えられました)

この梵鐘は、第二次大戦時に金属供出から免れた経緯があります。武佐竜也・新ご住職(41)は、そうした歴史も踏まえ、梵鐘に刻まれていた漢文の内容について、明らかにしたいと思い立ちました。処分されることになっていた高岡の銅器メーカーにその旨を伝え、お寺側は今秋、長年高校の日本史教諭を務めた中田隆二さん(62)=金沢市高坂町=に調査を依頼しました。
その結果、鐘に刻まれている漢文は、「本願寺9世実如の命を受け、近江国(現在の滋賀県)から来た祐乗坊(広済寺初代住職)が1501年(文亀元年)、山崎山(尾山御坊)に長く滞在し、精舎(寺院)を建て布教した」という内容であることが分かりました。
鐘は今から260年余り前の1753年(宝暦3年)に鋳造されたと見られています。
(鐘には尾山御坊からの由来が刻まれています)

尾山御坊は、現在の金沢城本丸跡が遺跡とされ、加賀の一向一揆の本拠地として1546年(天文15年)に創建されたとみられています。加賀の国の統治の中心的役割を果たしましたが、1580年(天正8年)に、織田信長の勢力による侵攻により陥落しました。これにより広済寺さんはここを離れて、金沢の山間部に移り、その後、いくつかの変遷を経て、現在地に移りました。
この梵鐘は10月の報恩講や3月の御忌(ぎょき)、そして大晦日など、大きな催しごとでは、きまって鐘を鳴らされてきました。今、そこに新たな光が当てられた結果、危うく消失を免れ、再び寺内で鎮座することになりました。
この貴重な史実は、北國新聞11月29日付朝刊で公になりました。参拝に訪れる人は、その鐘に目をやり、お寺の来し方に思いをはせているようです。
今年も残り少なくなってきた中で、近隣の住民の間に明るい話題を提供。あかつき屋としましては、このお寺をお客様に紹介する際、貴重な鐘の顛末についても、お話したいと考えています。
スポンサーサイト