いよいよこんな時季になったのかなーと思いました。あかつき屋にお越しになった若者6人グループ。いずれも大学4年生で、金沢への卒業旅行に伴うお泊まりでした。
奈良県大和郡山市にある郡山高校で共に学んだ方々。大学は違いますが、今も交友が続く、「仲良し6人組」(お客様)。来春から新たな世界へ旅立つ前に、旧交を温められました。
(お泊まりになった奈良・郡山高校卒業の皆様=写真掲載了解済)

大和郡山は、言わずと知れた金魚の街。金魚の養殖をはじめ、数多くの金魚店のほか、街なかには、金魚をあしらった電話ボックスやマンホール蓋などもあり、金魚とともに暮らしが営まれているといっても言いくらいです。
そんな郡山で高校生活を送ったお客様。車2台で金沢にやって来られました。
名園・兼六園を散策し、片町の居酒屋や近江町市場で北陸の美味を堪能されました。
お客様は大学卒業後は、社会人となる人の一方で、さらに大学院で研究を深められる人と様々です。それでも、今後も変わらぬ友情をと誓い合っておられるようでした。
皆様、ご宿泊ありがとうございました。卒業後も、体に気をつけ、ご活躍下さい。また、遊びに来て下さいね。
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慌ただしい師走の中、過日お休みを頂いて滋賀県近江八幡市まで遠出しました。ここに、あかつき屋の前のお寺・広済寺さんの本家筋に当たる浄土真宗本願寺派武作(むさ)寺・廣済寺さんがあり、そこを訪れるためでした。
金沢の広済寺さんについては先日、長年使用されてきた梵鐘の表面に、同寺が尾山御坊にあった時のことなどの史実が刻まれていることが分かったことから、その鐘が辛うじて処分を免れたという
出来事がありました。
この鐘に記された文章の解読に当たった元日本史教諭中田隆二さん(62)=金沢市高坂町=が、広済寺さんの各種古文書を調査した際、このお寺の本家に当たる近江八幡の廣済寺さんに所蔵されている古文書を調べる必要性を感じ、近江八幡への訪問を計画、私もそれに同行させてもらったのです。
(近江八幡市の浄土真宗本願寺派武作寺・廣済寺)

(境内に建つ親鸞聖人像)

近江八幡の廣済寺は西暦593年、聖徳太子が地元の武河綱に命じて伽藍を建立したのが始まりとされています。浄土真宗本願寺派の中でも、枢要な地位を占める古刹です。
金沢の広済寺さんは、文亀元年(1501年)3月15日に蓮如上人の命を受けた近江八幡の廣済寺十代厳誓房祐念の二男祐乗坊が、本山の別院・尾山御坊の看坊職として派遣されたのが創立の起源です。
金沢の広済寺さんの古文書を紐解いて調べている中田さんは、こうした経緯を踏まえ、尾山御坊があった当時の金沢の宗教的状況を詳しく把握したいと、より広範な史料を求め、近江八幡行を思い立ったのでした。
近江八幡の廣済寺さんに到着すると、武(たけ)敏信ご住職が私たちを出迎えて下さいました。ご住職は、金沢の広済寺さんの坊守さんの実のお兄さんです。
(古文書を調べる中田さん=右と、廣済寺の武ご住職、そして奥様)

早速ご住職は私たちに各種古文書を見せて下さいました。中田さんは、それを広げて、真剣に見ておられました。広済寺さんの古文書に記載されていることが、このご本家にある古文書でも同様に記されていれば、様々な出来事の信ぴょう性が高まると、中田さんは考えています。
中田さんは、ざっと史料に目を通しただけで、今回の訪問の目的が達せられるのではないかと、手ごたえを感じたご様子でした。
中田さんは、このお寺で史料をじっくりと見る時間がないので、お目当ての文献をデジカメで漏らさず撮影されました。
一方、私はこのお寺周辺を散策。お寺が地域の中心的存在であることを示すように、一帯は「武佐町」という町名がつけられ、お寺の隣には、武佐小学校がありました。
お寺の前の通りは旧中山道(歴史的建造物が立ち並ぶ旧中山道の通り)

(本陣跡も)

そして、出色なのは、お寺の前の通りが旧中山道となっていることです。この街道の66番目の宿場で、「武佐宿」と呼ばれています。
その通りには、歴史的建造物が軒を並べ、古民家を利用した「いっぷく処」あり、本陣跡の建物ありで、落ち着いた雰囲気。観光客の街歩きのコースにもなっていると、本家・廣済寺のご住職が教えて下さいました。
かつて近江の商人が移り住んだことから、町ができたと言われる、現在の金沢・近江町市場界隈。この例を挙げるまでもなく、金沢は近江(滋賀県)とは、古くから結びつきがあります。
今回、近江八幡での訪問では、さらに宗教の面でのつながりが強いことを再認識しました。
近江八幡、そして金沢の二つの広済寺さん、この度は大変お世話になりました。ありがとうございました。
こんなもの作り体験もあるんですね。オーストラリアからお越しになったご夫妻のお客様。あかつき屋に到着早々、見せて下さったものは、包丁です。「武生(現越前市)で包丁を作ってきました」とおっしゃいます。その包丁、素人が手作りしたとは思えないほど、きれいな仕上がりです。ご夫妻は「(オーストラリアへの)お土産になりました」と笑顔で話されました。
(体験教室で手作りされた包丁を披露する豪州のご夫妻)

(包丁には、それぞれ漢字でお二人の名前が刻まれました)

武生は、鎌、鋏、包丁などの打ち刃物の産地で、約700年の歴史があります。江戸時代には福井藩の保護政策により、株仲間が組織されるなどして、販路が全国に普及。明治期には、全国の鎌生産量の3割近くを占めるまでになったそうです。
ご夫妻は、大阪からJRで金沢に来る途中、武生駅で下車。越前打ち刃物の製造販売・体験施設「タケフナイフビレッジ」に立ち寄られたのでした。
そこで、5時間ほどかけて「マイ包丁」作りに挑戦。金属を火に当て赤くした後、ハンマーなどでたたいて形作り、研ぎ、磨いて出来上がり。この一つひとつの作業をスタッフの指導を受けながら、ご夫妻は、職人さんのように真剣に取り組んだのでした。
出来上がった包丁の表面には、それぞれのお名前「魔鴉黒」(マーク)、「樹谷呂路」(キャロル)が刻まれました。
【タケフナイフビレッジでの包丁作り=ご提供写真)】
(マークさん)

(キャロルさん)

あかつき屋のお客様は、これまで和菓子作りや、金箔工芸、加賀友禅染めなどの体験をされたことは多々ありましたが、包丁作りは初めて。そばで、その包丁を見ていると、すごい存在感がありました。
ご夫妻がご自宅のあるオーストラリア・キャンベラに帰られたら、この包丁を使って、腕によりをかけたお料理を作られるのではないでしょうか。
忘れ得ぬ思い出になりましたね。
ご宿泊ありがとうございました。
再び雪の話題。金沢は早朝から雪が止まず、大雪となりました。終日絶え間なく降り、30㌢ほど積もりました。12月にこれほど降ったのは記憶がなく、報道では12年ぶりだそう。一気に冬の真ん中に入った感じです。
一日の仕事は、除雪から。あかつき屋のお客さんたちも面食らっていました。
三重県四日市から車でお越しになった若者グループがいらっしゃり、除雪道具を使って、雪に覆われた車を脱出させ、北陸道へと向かわれました。東京から飛行機でお越しになった女性は、飛行機が無事飛ぶか、やきもきされていました。
(雪に覆われたあかつき屋のお庭)

あかつき屋のお庭は、すっぽりと雪に包まれました。松の木も、ツツジ、サツキも雪の下。その中で、植木屋さんに施して頂いた雪吊りが威力を発揮しています。近年は、暖冬傾向でしたが、こんな雪の洗礼を受けると、雪吊りは、やめることはできないと痛感します。
【クリスマスの飾りつけ】
(サンタのジャンボ靴下)

(クリスマスリース)

この雪でクリスマスムードが進んだ感がします。名実ともにホワイトクリスマスですね。
お宿の中は、サンタさんの大きな靴下やクリスマスリースなどを飾り、目前に迫ったクリスマスを演出しています。
(武蔵ケ辻の金箔雪吊り「金箔きらら」)

夜、所用で武蔵ケ辻界隈に出かけました。四つ辻には、金沢の伝統工芸にちなんで設置された金箔雪吊り「金箔きらら」のモニュメントが、ライトアップされていました。ここの代表的な冬の風物詩。降り続く雪の中で、きらきら光っており、随分とホットな気分になりました。
雪の朝を迎えました。金沢はここ数日、雪模様の天候でしたが、今回は昨夜からの降雪でまとまった雪となりました。10cm近く積もったでしょうか。
雪は、北国に住む者にとっては、除雪などの煩雑さから、必ずしもうれしいものではありませんが、チリ、あくたを一掃してくれるようで、その後、大気は清々(すがすが)しいものに。肌寒さの中、凛とした気持ちにもなります。
(雪の朝。あかつき屋の前は真っ白)

あかつき屋で雪の朝を迎えられたのは、3組のお客様。大阪からのご夫婦のほか、オーストラリアのカップルやタイの女性お二人でした。
いずれも雪にご縁の薄い方々で、玄関の格子戸を開けて、「外は真っ白ですね」と驚かれていました。
(上がりの間に椿に雪の絵)

この季節、あかつき屋のしつらえは、冬仕様になっています。上がりの間の衝立には、雪をかぶった椿の絵を飾りました。降る雪の中で花開く様には、華やぎさえあります。
(円窓の前、生け花の脇にゆず)

玄関の円窓の生け花の隣には、ゆずを置きました。ゆずはここ以外にも、コミュニティルームや洗面所などにも配しました。
黄色の実は、見るだけで暖かい気分になります。
年の瀬となり、慌ただしさが増す日々。それぞれの思い、縁(えにし)でお越しになったお客様には、誠実に、真摯に向き合っていきたい。
(前回のつづきです)
私がこれまで持っていた敦賀のイメージと言えば、福井・嶺北と嶺南の結節点であることのほかに、気比神宮や気比の松原などの観光スポットがあること、そして原発が立地していることなどでした。
しかし、敦賀市役所のご担当者の案内で回った今回の視察では、臨海部(金ケ崎周辺エリア)に敦賀の風土や歴史を特徴づける数多くの施設が立地していることが分かりました。
隣県の石川に住みながら、自分の知識が、いかに貧相であるかを思い知らされた視察となりました。
訪れた個々の施設について、詳細な記述はしませんが、それぞれ重厚な歴史があり、一つの場所に半日いても飽きない内容を備えていました。
訪ねた順にご紹介します。
●敦賀市立博物館
敦賀の歴史や風土を数多くの展示物で紹介する施設。昭和2年に建築の旧大和田銀行本店を活用しており、県指定有形文化財に登録されています。ちなみに旧大和田銀行の創業者は、俳優大和田伸也、大和田獏兄弟のご先祖の親族だそうです。

●博物館通り
敦賀市立博物館の前の通り。町家が軒を連ね、レトロな雰囲気が漂います。カフェーなどが入居した町家ショップや、紙わらべ資料館などがあり、観光客らの立ち寄りスポットとなっています。突き当たりには、古い佇まいの敦賀酒造があります。

●お魚通り
数多くの鮮魚店が並び、ここが漁業のまちであることも、感じさせてくれます。訪れた時、店頭には、今漁のピークを迎えた越前ガニやセイコガニ(金沢では、コウバコガニ)が色鮮やかに並んでいました。干物も軒下に吊るされ、買い気をそそります。

●旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)
かつてシベリア鉄道経由でヨーロッパとつながった「欧亜国際連絡列車」の発着駅だった敦賀港駅の駅舎を再現したものです。敦賀の鉄道に関する歴史を模型や各種資料で紹介。敦賀がヨーロッパへの一つの玄関口であったと知り、驚きました。

●人道の港 敦賀ムゼウム
1940年、リトアニア駐在の杉原千畝領事代理が発行した「命のビザ」を手にして、シベリア経由で敦賀港に上陸した多数のユダヤ人難民などのことについて紹介する資料館。訪れた日には、外国人の見学者も多数いました。

●敦賀赤レンガ倉庫
明治38年(1905年)に建設された石油会社の倉庫で、二棟からできています。往時の繁栄を伝え、独特の建築美をもつことから、国の登録有形文化財に指定されています。
平成27年10月に、敦賀市一円を眺望するジオラマとレストランを備えた商業施設として整備され、週末は大勢の観光客でにぎわっています。

(リアルに敦賀のまちを形作ったジオラマ)

駆け足の視察でしたが、北陸新幹線の開通を控え、一層魅力的なまちにと官民挙げて取り組んでいることが十二分に感じられる半日行となりました。
今度は、オフモードで、時間を気にせず、ゆっくりと各スポットを訪ねたいと思いました。
関係する団体の視察で福井県敦賀市を訪れました。敦賀は、関西・中京方面へ行く時は、必ず通るところ。でも、駅に降りて街を歩くのは久しぶり。いろいろと発見があり、刺激的な一日となりました。
平成34年度末の北陸新幹線金沢ー敦賀間の開通を控え、敦賀駅が大きく様変わりしているのに驚きました。近年の整備事業により、駅舎は新しくなり、シックな外観に。駅舎に隣接して、交流施設「オルパーク」が新設されていました。開放感と洗練された雰囲気があり、駅舎と合わせ、敦賀の新たな顔になっていました。
(シックな外観となった敦賀駅と交流施設オルパーク)

(内装材に木材をふんだんに使った駅舎内)

敦賀は、私にとっては、親近感のある場所。マラソンを愛好する私は以前に秋に開催される敦賀マラソンに数回出場しています。
関西、中京方面の経由地であるばかりでなく、若狭・小浜方面へ至る中継点でもあるからです。
お土産として、小牧のかまぼこを買ったこともあります。
駅に降り立って、振り返ったら、その駅舎の外観の様変わりに驚きました。以前はコンクリート造りでしたが、今は落ち着いた色調の外観に変わりました。駅舎の内装素材も木をふんだんに使用しており、心が安らぎます。
(交流施設「オルパーク」の多目的室)

隣接して、交流施設「オルパーク」があります。2階に上がると、コミュニティ・スペースがありました。駅前広場に向けて、全面ガラス張りとなっており、開放感いっぱいです。そこでは、高校生らが静かに勉強していました。
駅がすっかり、まちの集いの場になっていました。(つづきます)
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