意図せぬところで、絶景と出会いました。場所は、河北潟干拓地。鮮やかな赤い花畑が一面に広がっているのです。その花の名は、クリムゾンクローバーと言います。
初夏の日差しの下、その風景はひと際目立ちます。車を止めて、しばし見入ってしまいました。
(一面に広がる赤い花畑)

そこは、河北潟干拓地のひまわり村の敷地。能登方面からの帰りに河北潟干拓道路を通ったところ出会いました。
ひまわり村は、夏は35万本のひまわりが咲くことで有名なところ。そこでは、ひまわりの播種の前に、土壌を肥やすために、緑肥植物としてクリムゾンクローバーを植えているのだそう。
(ここはひまわり村です)

(ハート形のモニュメントがありました)

花畑の中には、ハート形のモニュメントもあり、カップルらの撮影スポットになっているよう。ここには、既に先客があり、若者や家族連れらの姿が見られました。
思いがけず素敵な場所を見つけると、得した気分になります。ここでしばし憩った後、再び金沢市内に向けてハンドルを握りました。
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(前回からのつづき)
この山里の秘境感と、ときめきは、経験した者でないと分からないかもしれません。白山ろくぼたん鍋プロジェクトの晩秋のこのイベントでは、参加者は瀬波川キャンプ場を訪れた後、昼食会場の宿泊交流施設白山里までの2㌔ほどの道のりを歩いて行きました。
様々に秋の色を見せる山の木々。そして、それらの木立の間からは、名も付いていないような滝がいくつも流れており、驚きの連続。一方、石川県一の大河・手取川に注ぐ瀬波川は、ここが源流ではないかと思わせるほどに、あちこちで荒々しい渓谷美を見せていました。
30分余りの林道散歩でしたが、晩秋の陽光と紅葉の下、この上なくラグジャリー(贅沢)なプロムナードとなりました。
到着した白山里では、一同は特製ランチで会食。
地元のおそばや堅豆腐、柿、ちらし寿司などのほか、ヤマメの塩焼きなど、山の幸が満載の御膳。いずれも美味で、彩り豊か。ほど良い山歩きでお腹が空いた参加者にとっては、身も心も満たされ、十分満足のいくお食事でした。
瀬波川キャンプ場から白山里に至るまでの沿道風景を写真でご紹介します。
【林道沿いの風景】
(傍らで流れる小さな滝)

(木立ちから見える瀬波川)

(語らいながら散歩する女性たち)

(山肌を縫って流れる滝)

(目を引きつけた紅葉の樹木)

(渓谷美を見せる瀬波川)

【白山里】
(全景)

(ランチ。このほかデザートなどもありました)

この催しにご協力して下さった関係者の皆様、ありがとうございました。
(前回の続き)銀木犀について教えて下さった地元のご年配の男性。その木について、話が済むと今度は、この界隈の歴史について話題が発展しました。
藩政時代、金沢城を守るために、近くに土居や堀があったというのです。それについて説明する案内板が少し下りたところにあるというので、その男性に導かれてそこまで行きました。その案内板は、小さな公園の前にあります。
案内板には、「市史跡 金沢城惣構跡~東外惣構~」と記されています。
(金沢城惣構跡を紹介する案内板)

この案内板は、お客様を兼六園までお連れする際、必ず通る道の脇にあるので、その存在はよく知っています。説明文も既に読んでいるので、内容については承知していましたが、図示されている東外惣構や土居などの場所は、もう一つ判然としませんでした。
私をここまで連れてきて下さったこの男性。私がこれまで抱いていたモヤモヤを晴らして下さいました。
「昔、土居が、銀木犀のある駐車場の周囲にあったんやわ。でも10年ほど前かな~、壊されてしまって、今はその面影はなくなってしまったわ」。
土居とは、何のこと?それは、土手のように土盛りしたもので、案内板によると、藩政時代、金沢城の防御施設として造られました。土居には、敵の侵入を防ぐために、竹や木が植えられたそうです。その男性は、この土居の存在を自宅のすぐそばで見て知っていたのでした。
この土居のさらに外側には、お堀も築かれました。金沢城の東の方角に当たるこの界隈には、東外惣構と呼ばれるお堀が造られました。
案内板では、お堀の幅は築造当時、10㍍以上もあったそうです。しかし、藩政中期頃から徐々に幅が狭められ、現在は水路になっているとのことでした。
(賢坂橋の下を流れる水路。かつてこの流れに沿って金沢城惣構があったのでした)

この水路が、これも毎日のように通る賢坂橋の下を流れるものだと、その男性は教えて下さいました。「これが、そうなのか」。その説明で、これまで胸にあったもどかしい気持ちが解消されました。
「その水路の上に石垣があるでしょ。これも、藩政期に造られたもんなんですよ」。その男性は、さらに説明を加えて下さいました。やはりそうなのか。この古びた石の組み合わせは、想像した通りでした。
男性は、さらに続けます。「この(東外惣構の跡の)水路のところどころには、石垣が残っているところがある。水路の上(かみ)の方には、木曽坂があるんやは」。
金沢市街地の中で、独特の趣がある、あの木曽坂に通じるのか。
この男性の話を聞いていると、いっぺんに歴史ロマンに引き込まれました。
あかつき屋から兼六園へ行く道、ぐっと楽しみが増しました。
秋は、豊かで深い季節。時間の経過とともに、自然は様々な表情を見せてくれます。
あかつき屋から兼六園へと行く道沿いにも、昨日とは違う姿を見せる木々があります。この時季、代表的なものと言えるのが、銀木犀の巨木です。その木は常福寺(小将町)さん裏手の駐車場にあり、高さは10㍍ほどもあります。
その銀木犀から今、かすかに甘い香りが漂ってきます。青空の下、うっそうとしたその姿は、時節到来とばかり、その存在を主張しているように見えます。
(常福寺さん裏手の駐車場にたたずむ銀木犀)

幸いこの木のすぐそばに住むご年配の男性から、いろいろと教えて頂きました。木のすぐ下には、案内板が立てられています。
それによると、この銀木犀は、平成9年に金沢市の保存樹に指定されているのです。幹周りは2㍍あり、枝の幅は、木の高さと同じ10㍍もあるのです。そのため離れて見ると、お団子のように丸い形をしています。
市内の中心部で、これだけ樹勢の旺盛な銀木犀は珍しいそうで、案内板は「貴重な名木」と記しています。
香りは金木犀ほど強くありませんが、それでも木の下に立つと、ほのかな香りがします。さわやかな秋の空気との妙なるハーモニーです。
梅雨空が続きます。そんな中で、ほっと気持ちが明るくなるところがあります。
兼六園の近隣、小将町にある「地蔵橋子安地蔵尊」です。
祠(ほこら)の前には、きれいな花が供えてあり、地元の人がお世話されていることが分かります。この界隈には、金沢の下町の人情が今も息づいているのが、感じられます。
(きれいな花が供えられている地蔵橋子安地蔵尊)

地蔵尊があるのは、小将町中学校の裏手で、近くには加賀友禅伝統産業会館や玉泉園などがあります。その付近を通るとき、自然とこの地蔵尊が目に留まります。
(地蔵尊の由来書)

地蔵尊の横手には、これの由来を書いた立て札が据えられていました。それによると、こうです。
応長元年(1311年)に、大乗寺の瑩山和尚が現在の小将町に浄住寺というお寺を建てました。しかし、その後大火で、それは焼失したとのこと。
ただ、浄住寺門前の地蔵堂は、祈れば子どもの病気、その他何事も成就するとされ、人々が花を供えて信仰したという。この堂の傍らの橋を地蔵橋と称した、とあります。
藩政の初期には、奥村内膳氏という人の夢枕に地蔵尊が立ち「自分は橋の下にて諸人に踏まれて通る人々を済度する(助ける)」とのお告げがあり、身代わり地蔵として、さらに多くの人々の信仰を得た、そうです。
昭和に入ってからは、多くの信者によって、現在の地蔵橋子安地蔵堂が再建された…、と結ばれています。
いつもきれいな花を供えられ、お地蔵さんは、さぞうれしいことでしょう。
この地蔵尊は、あかつき屋から歩いて10分足らずのところにあります。日ごろから感じることですが、この界隈は、百万石の城下町の伝統か、暮らしている人の間に今も、温かく、濃やかな人情が息づいているようです。
あかつき屋のお客様も、近隣に食事に行ったり、お風呂屋さんに行ったりして、そのようなことをとても感じる、とよくおっしゃいます。
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