あかつき太郎の町家日記

金沢町家ゲストハウス あかつき屋をめぐる出来事や思い、人とのふれあいなどをつづるブログ。街角の話題や四季折々の風情も紹介していきます。

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戦後70年、お客様通じ戦争悲話知る

戦後70年。戦争を知らない世代の私にとっては、第二次大戦がさらに遠くなる感がありますが、この度あかつき屋のお客様を通じて、この大戦の悲惨さを知る機会を得ました。

お泊まりになったお客様の80代男性の方々は、終戦間際の昭和20年8月、長野県内の軍需工場で働き、そこで仕事場を共にした女性のお仲間が愛知県豊川市内の軍需工場で戦火を受け、多数の方がお亡くなりになりました。

お客様たちは、その悲惨な出来事に心を痛め、少なからずご縁のあった方々の霊を慰めたいと、金沢にお越しになった機会を利用して、金沢・卯辰山にある慰霊の塔を訪れ、手を合わせられたのでした。

お客様の胸の内には今もなお戦争の生々しさが残るご様子。節目の時を迎え、人の命の大切さ、平和の尊さをかみしめたことでした。

(戦時中のことを回想される旧制飯田中学校の卒業生の皆さん
                          =写真掲載了解済)
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(出版された書籍『中学校が軍需工場になった』)
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今回お泊まりになったお客様は、長野県の旧制飯田中学校(現飯田高校)を卒業された方々です。この方々は在学中の昭和20年、学校の一部が軍需工場となりました。そこで勤労奉仕することを余儀なくされ、軍事製品の生産に当たられたそうです。

その学校併設の軍需工場は、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠(工場)の一部が移転(疎開)したもので、その関係から豊川のその工場の従業者女性(挺身隊と呼ばれました)の一部が飯田の軍需工場で働くことになったのでした。

当時、中学生でありながら、その飯田中学校の軍需工場で働いたお客様たちは、同じ工場内で働いたうら若い女性のことを今も鮮明に覚えておられます。そして、そのお仲間が実は、大戦が終わるわずか1週間ほど前の8月7日に、豊川の工場が米軍の爆撃を受け、多数亡くなったのでした。

その中には、石川県出身者が多数含まれており、今回あかつき屋にお泊まりになった旧制飯田中学校の卒業生の皆さんの金沢訪問の大きな目的が、無念の死を遂げた若き女性たちの霊を慰める、殉難おとめの像を訪れることでした。

今回の金沢の旅については、旧制飯田中学校卒業生で、現在金沢ご在住の堅田仁さん(85歳、天神町ご在住)がお世話されました。堅田さんら飯田中学同窓生はお泊まりの夜、昨日のことのように、学校併設の軍需工場で働いた日々のことを語られました。そして、その工場内で共に汗して働いた、当時10代後半の若い女性たちのこともしっかりと覚えておられました。

まだ年若い少年時代。まして、戦時下とあって、心の余裕もなかったのですが、友達の中には、彼女らに淡い思いを抱いた人もいたようです。

その当時のことは一昨年、『中学校が軍需工場になった 長野県飯田中学校生徒たちの昭和20年(1945)春夏』という本にまとめられ、出版されました。そんな本も手元におきながら、あかつき屋でお客様たちは、夜遅くまで、過酷な環境下、必死に生きた戦時中のことを語っておられました。

(出発の朝、おとめの像がある卯辰山に向かわれました。右から3人目が西村さん)
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金沢ご在住の堅田さんは戦後、思いがけないご縁から豊川の軍需工場で働いた女性と金沢市内で知り合われました。そのお一人が西村八重子さん(90歳、東山ご在住)で、24日朝、堅田さんら旧制飯田中卒業生とご一緒に、卯辰山にある、おとめの像に向かわれました。

(おとめの像の前で手を合わせられました)
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緑濃い丘の上に建つおとめの像。その像の前に立ったご一行は、手を合わせ、若くして人生を閉じた50余名の乙女たちの冥福を静かに祈ったのでした。

歴史の生き証人とも言えるお客様を通じて、知った戦後史。そして、人生の出会い、めぐりあい。生の重み、深みを感じる数日間でした。

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ドイツのペンパル、今は“姉”と金沢へ

金沢はここ数日、気温が30度前後を推移する気候となっています。梅雨入りを前にして、早くも本格的な夏の到来か。多少戸惑いつつ、あかつき屋の仕事に勤しんでいます。

5月ともお別れ。暦の分岐点に立つ今、この春の日々を振り返ってみました。様々なお客様との出会いがあり、一つひとつ心に残るものでした。

その中で、一篇の小説にもなるような、ドラマチックな半生を送られているお客様との出会いがありました。その方は、葉子さんで、葉子さんは少女時代、ドイツ人女性レナーテさんと文通を始め、その後、その方の弟さんと結婚し、ドイツに暮らすことになったのでした。

今回の日本訪問は、かつての文通相手であり、今は義理のお姉さんとなった二人の女性とともに来日され、ゴールデンウイーク期間中に金沢にお越しになったのでした。

(あかつき屋で朝食を取られる左から葉子さんと、クリステルさん、レナーテさん
                                     =写真掲載了解済)
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あかつき屋において、外国からのお客様は特に珍しいことではないので、普段通りにお世話させて頂いたのですが、葉子さんの口からご一緒されているドイツ人女性レナーテさんについて「50年前の文通の相手なんですよ」とおっしゃったのには、びっくり。いやがうえにも今日に至るまでの顛末を知りたくなり、葉子さんにお願いしたところ、快く(?)事の次第を教えて下さったのでした。

今から50年ほど前、葉子さんが高校一年生くらいの頃、葉子さんは外国にあこがれ、ドイツの事情に明るいお父様のつてで同い年のドイツ人女性と文通することになったのです。そのお相手がレナーテさんでした。

こうした文通というのは、いつか知らずしらずのうちに途切れ、終わったりするものですが、お二人の場合、「忘れた頃にまた手紙が来たり、こちらも返事を出す、というふうに、結構長く続いた」(葉子さん)そうです。

そんな交流により、葉子さんは、いつかドイツへ行けるのではないかとの思いから、大学は独文科へ進まれました。渡独された、葉子さんのお父様を介して、レナーテさんご一家の様子も分かり、葉子さんは一層レナーテさんへの親近感とともに、ドイツへの思いを募らせたのでした。

葉子さんは大学を卒業された1972年に渡独し、ボン大学の独文科に留学されたのでした。そうなればレナーテさんとの距離はさらに縮まり、彼女のご一家とも親しくなりました。
そして、知り合ったのがレナーテさんの一つ下の弟さんのヴォルフガンクさんでした。その後、夫になる人です。

(葉子さんと夫のヴォルフガンクさん=ご提供写真)
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お二人の交際は順調だったようですが、1970年代、国際結婚となると今ほどポピュラーでないため、葉子さんはご実家との間で曲折もあったようですが、1976年にめでたくゴールイン。
今では二人の子供さんに加え、二人のお孫さんにも恵まれ、幸せな毎日を送っておられます。

(息子さんの暁雄さんと彼女のサーラさん=ご提供写真)
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(娘さんの雪さんと夫のペーターさんと二人のお孫さん=同)
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そんな葉子さんですが、ドイツでは現役のキャリアウーマンで、翻訳のお仕事に毎日忙しくしておられるとのこと。

今回の日本訪問は、レナーテさんと、その一つ年上のお姉さんクリステルさんを伴ってのものでした。
義理のお姉さんにとっては初めての日本で、葉子さんにとっては、いろいろと気を遣うところもあったのではないかと拝察しています。

金沢のご宿泊先として選んで頂いたこのあかつき屋。事前には、ドイツの(義理の)お姉さんとともにお越しになるとはうかがっていましたが、背後にこんな物語があるとは、びっくり。

ご宿泊中は、ゆっくりとお過ごしになり、この町家の魅力を満喫されたようでした。朝は近くの喫茶店からモーニングセットを出前してもらい、お庭を楽しみながら、お食事されました。

一期一会。日々気を緩めることなく、お客様と相対しているつもりですが、このようなお客様と出会いますと、震えるような心持ちになり、一段と身が引き締まります。

金沢・あかつき屋での時間が、お客様にとって、最良の時になるよう、一層精進したいと思います。

葉子さん、貴重なお話本当にありがとうございました。

イタリア人牧師、伝説の少年と交流していた!

先月末、イタリア出身の大叔父さんの面影を探しに、イタリアからあかつき屋にお泊りになった従兄妹さんらの金沢滞在の話が、新たな展開を見せました。

生前、金沢・三馬教会で牧師をされていた彼らイタリア人の大叔父さんが、伝説のバイク少年と交流していたことが分かったのです。これは、このブログの読者の方からもたらされた話です。

イタリア人牧師とバイク少年との交流は、その少年・浮谷東次郎が著した『がむしゃら1500キロ』(ちくま文庫)で詳しく記されています。
浮谷少年、イタリア人牧師との交流後、レーサーになり、サーキットで練習中事故死するという、悲運の生涯を送っています。
その少年とふれあったイタリア人牧師のご親族が、あかつき屋に宿泊された奇縁に、驚きと深い感慨を覚えています。

(エンリコ牧師と伝説のバイク少年とのふれあいが綴られている『がむしゃら1500キロ』
  =このブログの読者の方がご紹介、「ありがとうございました」筆者)
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『がむしゃら1500キロ』という本は、このブログ読者の方からおしえて頂きました。その本によると、1957年、当時中学三年生だった浮谷少年が、高校入試を控えた夏休み、自分への挑戦の意味を込めて、自宅のある千葉県市川と大阪間を50CCのバイクで往復の旅に出発したのでした。

その大阪からの帰り道、名古屋に近づいた頃、やはりバイクで移動中のイタリア人のエリンコさんと出会ったのでした。このエリンコさんが、過日あかつき屋にお泊りになったイタリア人従兄妹さんの大叔父さんで、当時金沢で宣教師をされていたのでした。

その本では、浮谷少年とエリンコ牧師との交流が、かなり詳しく書かれています。二人は道すがら食堂で一緒にカレーライスを食べたこと、そして、浮谷少年はエリンコ牧師の厚意で、牧師が関係する名古屋の教会の寮に無料で泊まったことなどが、綴られています。

(生前のエンリコ牧師
 =あかつき屋にご宿泊されたイタリアからのお客様ご提供写真)
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その間の二人の交流からは、エリンコ牧師が、とてもおおらかで懐が深く、また日本そして金沢を愛していることがよく分かりました。

これは、大叔父さんの面影を探しに、あかつき屋にお泊りになったイタリア人従兄妹さんらの回想と全く一致するものでした。
この本からも、大叔父さんであるエリンコ牧師の人間の大きさがうかがえ、大叔父さんの人となりを慕い、はるばるイタリアからご親族が金沢にやって来たのも十分うなずけました。

一方、浮谷少年はその後渡米し、帰国後レーサーになったものの、1965年に鈴鹿サーキットで練習中、事故で無念の死を遂げています。なんという顛末でしょう。

お宿業に携わっていると、様々な人と出会い、その方の人間的な魅力にふれたり、社会や世界の動きを生で感じることが少なくありません。

今回のイタリア人のお客様の周辺に、こんな秘話があるとは。人の世の深遠さと広がりに思いをいたさざるを得ず、改めてお宿業の意義をかみしめています。

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