fc2ブログ

あかつき太郎の町家日記

金沢町家ゲストハウス あかつき屋をめぐる出来事や思い、人とのふれあいなどをつづるブログ。街角の話題や四季折々の風情も紹介していきます。

あかつき屋のホームページはこちらです。

仏の世界遺産修道院そばに鳥居

(前回からのつづき)
フランスの世界遺産の修道院モンサンミッシェルそばに鳥居が建つという、珍しい写真を目にしました。あかつき屋に宿泊中のフランス人女性イザベルさんが、スマホの画面で見せて下さったのです。

なぜ、フランスを代表する名所のそばに、神社の鳥居が?この奇妙な取り合わせについて、イザベルさんは、説明して下さいました。

モンサンミッシェルは、フランス北西部のノルマンディー地方とブルターニュ地方の境に位置する修道院です。サン・マロ湾の岩島に立地しており、百年戦争では、海に浮かぶ要塞にもなったという史実があります。

(モンサンミッシェル近くに建つ鳥居
                =イザベルさんのいとこさんが撮影)
1031toriiinfrance.jpg

大手メディアの報道によると、日本とフランスの両政府観光局が、両国の国交樹立150周年となった2008年を「日仏観光交流年」と位置づけ、互いに観光キャンペーンを展開。その際に、日本政府観光局が広島の宮島を、フランスに最も紹介したい観光地のひとつに選んだことがきっかけで、モンサンミッシェル市と宮島のある廿日市(はつかいち)市の交流が始まったのだそうです。

これをきっかけとして、モンサンミッシェル市と宮島のある廿日市市が観光友好都市提携を結びました。宮島には、世界文化遺産に登録されている厳島神社がありますが、モンサンミッシェル修道院も厳島神社もともに海の中にあります。

そうした共通点もあってか、両市の観光友好都市提携10周年の記念に、モンサンミッシェル市長が今年7月に知人の大工にこの鳥居を造らせたのだとか。突然現れた不思議な風景が地元民らの話題となり、観光客も集めることになったのでした。

そして、あかつき屋にお泊まりのイザベルさんのいとこさん一家が先日そこを訪れ、写真を撮って来られました。イザベルさんはいとこさんから送られてきた写真を私に見せて下さったのです。

フランスと日本との間で、こんなご縁もあるのか。それを彼の地のお客様からおしえてもらうなんて。
この歴史的な資産・金沢町家でイザベルさんから貴重な話をうかがった時間は、僥倖とも言えるひと時でした。

スポンサーサイト



前のお寺の由来記した梵鐘残る

あかつき屋の前のお寺・広済寺さん(金沢市扇町)が、歴史的に価値のある寺院であることを再認識した出来事がありました。真宗大谷派の広済寺さんは、500年ほど前に尾山御坊に所在していたのですが、その歴史についてお寺の梵鐘に刻まれていたことが判明したのです。

この鐘は実は、ひび割れがあることが昨年見つかり、今年10月に新しい鐘と世代交代し、処分されることになっていました。しかし、その寸前にこの鐘の表面に記されてる文章が、尾山御坊の時代からの歴史が刻印されている貴重な歴史遺産であることが専門家の調査から分かり、お寺は「溶かされる寸前」に、売却先の高岡の銅器メーカーから取り戻したのでした。

歴史家から文化財的な価値があると評価された梵鐘。今は、お寺境内に新設された台座に置かれ、「第二の人生」を歩み始めました。

(高岡の銅器会社から戻ってきた広済寺さんの梵鐘)
1129kane1.jpg

(真新しい台座の上に据えられました)
1129kane2.jpg

この梵鐘は、第二次大戦時に金属供出から免れた経緯があります。武佐竜也・新ご住職(41)は、そうした歴史も踏まえ、梵鐘に刻まれていた漢文の内容について、明らかにしたいと思い立ちました。処分されることになっていた高岡の銅器メーカーにその旨を伝え、お寺側は今秋、長年高校の日本史教諭を務めた中田隆二さん(62)=金沢市高坂町=に調査を依頼しました。

その結果、鐘に刻まれている漢文は、「本願寺9世実如の命を受け、近江国(現在の滋賀県)から来た祐乗坊(広済寺初代住職)が1501年(文亀元年)、山崎山(尾山御坊)に長く滞在し、精舎(寺院)を建て布教した」という内容であることが分かりました。
鐘は今から260年余り前の1753年(宝暦3年)に鋳造されたと見られています。

(鐘には尾山御坊からの由来が刻まれています)
1129letters.jpg

尾山御坊は、現在の金沢城本丸跡が遺跡とされ、加賀の一向一揆の本拠地として1546年(天文15年)に創建されたとみられています。加賀の国の統治の中心的役割を果たしましたが、1580年(天正8年)に、織田信長の勢力による侵攻により陥落しました。これにより広済寺さんはここを離れて、金沢の山間部に移り、その後、いくつかの変遷を経て、現在地に移りました。

この梵鐘は10月の報恩講や3月の御忌(ぎょき)、そして大晦日など、大きな催しごとでは、きまって鐘を鳴らされてきました。今、そこに新たな光が当てられた結果、危うく消失を免れ、再び寺内で鎮座することになりました。

この貴重な史実は、北國新聞11月29日付朝刊で公になりました。参拝に訪れる人は、その鐘に目をやり、お寺の来し方に思いをはせているようです。

今年も残り少なくなってきた中で、近隣の住民の間に明るい話題を提供。あかつき屋としましては、このお寺をお客様に紹介する際、貴重な鐘の顛末についても、お話したいと考えています。

戦後70年、お客様通じ戦争悲話知る

戦後70年。戦争を知らない世代の私にとっては、第二次大戦がさらに遠くなる感がありますが、この度あかつき屋のお客様を通じて、この大戦の悲惨さを知る機会を得ました。

お泊まりになったお客様の80代男性の方々は、終戦間際の昭和20年8月、長野県内の軍需工場で働き、そこで仕事場を共にした女性のお仲間が愛知県豊川市内の軍需工場で戦火を受け、多数の方がお亡くなりになりました。

お客様たちは、その悲惨な出来事に心を痛め、少なからずご縁のあった方々の霊を慰めたいと、金沢にお越しになった機会を利用して、金沢・卯辰山にある慰霊の塔を訪れ、手を合わせられたのでした。

お客様の胸の内には今もなお戦争の生々しさが残るご様子。節目の時を迎え、人の命の大切さ、平和の尊さをかみしめたことでした。

(戦時中のことを回想される旧制飯田中学校の卒業生の皆さん
                          =写真掲載了解済)
0624teishinmain.jpg

(出版された書籍『中学校が軍需工場になった』)
0624teishinbook.jpg

今回お泊まりになったお客様は、長野県の旧制飯田中学校(現飯田高校)を卒業された方々です。この方々は在学中の昭和20年、学校の一部が軍需工場となりました。そこで勤労奉仕することを余儀なくされ、軍事製品の生産に当たられたそうです。

その学校併設の軍需工場は、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠(工場)の一部が移転(疎開)したもので、その関係から豊川のその工場の従業者女性(挺身隊と呼ばれました)の一部が飯田の軍需工場で働くことになったのでした。

当時、中学生でありながら、その飯田中学校の軍需工場で働いたお客様たちは、同じ工場内で働いたうら若い女性のことを今も鮮明に覚えておられます。そして、そのお仲間が実は、大戦が終わるわずか1週間ほど前の8月7日に、豊川の工場が米軍の爆撃を受け、多数亡くなったのでした。

その中には、石川県出身者が多数含まれており、今回あかつき屋にお泊まりになった旧制飯田中学校の卒業生の皆さんの金沢訪問の大きな目的が、無念の死を遂げた若き女性たちの霊を慰める、殉難おとめの像を訪れることでした。

今回の金沢の旅については、旧制飯田中学校卒業生で、現在金沢ご在住の堅田仁さん(85歳、天神町ご在住)がお世話されました。堅田さんら飯田中学同窓生はお泊まりの夜、昨日のことのように、学校併設の軍需工場で働いた日々のことを語られました。そして、その工場内で共に汗して働いた、当時10代後半の若い女性たちのこともしっかりと覚えておられました。

まだ年若い少年時代。まして、戦時下とあって、心の余裕もなかったのですが、友達の中には、彼女らに淡い思いを抱いた人もいたようです。

その当時のことは一昨年、『中学校が軍需工場になった 長野県飯田中学校生徒たちの昭和20年(1945)春夏』という本にまとめられ、出版されました。そんな本も手元におきながら、あかつき屋でお客様たちは、夜遅くまで、過酷な環境下、必死に生きた戦時中のことを語っておられました。

(出発の朝、おとめの像がある卯辰山に向かわれました。右から3人目が西村さん)
0624teishin2.jpg

金沢ご在住の堅田さんは戦後、思いがけないご縁から豊川の軍需工場で働いた女性と金沢市内で知り合われました。そのお一人が西村八重子さん(90歳、東山ご在住)で、24日朝、堅田さんら旧制飯田中卒業生とご一緒に、卯辰山にある、おとめの像に向かわれました。

(おとめの像の前で手を合わせられました)
0624teishinotome.jpg

緑濃い丘の上に建つおとめの像。その像の前に立ったご一行は、手を合わせ、若くして人生を閉じた50余名の乙女たちの冥福を静かに祈ったのでした。

歴史の生き証人とも言えるお客様を通じて、知った戦後史。そして、人生の出会い、めぐりあい。生の重み、深みを感じる数日間でした。

ドイツのペンパル、今は“姉”と金沢へ

金沢はここ数日、気温が30度前後を推移する気候となっています。梅雨入りを前にして、早くも本格的な夏の到来か。多少戸惑いつつ、あかつき屋の仕事に勤しんでいます。

5月ともお別れ。暦の分岐点に立つ今、この春の日々を振り返ってみました。様々なお客様との出会いがあり、一つひとつ心に残るものでした。

その中で、一篇の小説にもなるような、ドラマチックな半生を送られているお客様との出会いがありました。その方は、葉子さんで、葉子さんは少女時代、ドイツ人女性レナーテさんと文通を始め、その後、その方の弟さんと結婚し、ドイツに暮らすことになったのでした。

今回の日本訪問は、かつての文通相手であり、今は義理のお姉さんとなった二人の女性とともに来日され、ゴールデンウイーク期間中に金沢にお越しになったのでした。

(あかつき屋で朝食を取られる左から葉子さんと、クリステルさん、レナーテさん
                                     =写真掲載了解済)
0530germanymain.jpg

あかつき屋において、外国からのお客様は特に珍しいことではないので、普段通りにお世話させて頂いたのですが、葉子さんの口からご一緒されているドイツ人女性レナーテさんについて「50年前の文通の相手なんですよ」とおっしゃったのには、びっくり。いやがうえにも今日に至るまでの顛末を知りたくなり、葉子さんにお願いしたところ、快く(?)事の次第を教えて下さったのでした。

今から50年ほど前、葉子さんが高校一年生くらいの頃、葉子さんは外国にあこがれ、ドイツの事情に明るいお父様のつてで同い年のドイツ人女性と文通することになったのです。そのお相手がレナーテさんでした。

こうした文通というのは、いつか知らずしらずのうちに途切れ、終わったりするものですが、お二人の場合、「忘れた頃にまた手紙が来たり、こちらも返事を出す、というふうに、結構長く続いた」(葉子さん)そうです。

そんな交流により、葉子さんは、いつかドイツへ行けるのではないかとの思いから、大学は独文科へ進まれました。渡独された、葉子さんのお父様を介して、レナーテさんご一家の様子も分かり、葉子さんは一層レナーテさんへの親近感とともに、ドイツへの思いを募らせたのでした。

葉子さんは大学を卒業された1972年に渡独し、ボン大学の独文科に留学されたのでした。そうなればレナーテさんとの距離はさらに縮まり、彼女のご一家とも親しくなりました。
そして、知り合ったのがレナーテさんの一つ下の弟さんのヴォルフガンクさんでした。その後、夫になる人です。

(葉子さんと夫のヴォルフガンクさん=ご提供写真)
0530germany1.jpg

お二人の交際は順調だったようですが、1970年代、国際結婚となると今ほどポピュラーでないため、葉子さんはご実家との間で曲折もあったようですが、1976年にめでたくゴールイン。
今では二人の子供さんに加え、二人のお孫さんにも恵まれ、幸せな毎日を送っておられます。

(息子さんの暁雄さんと彼女のサーラさん=ご提供写真)
0530germany2.jpeg
(娘さんの雪さんと夫のペーターさんと二人のお孫さん=同)
0530germany3.jpg

そんな葉子さんですが、ドイツでは現役のキャリアウーマンで、翻訳のお仕事に毎日忙しくしておられるとのこと。

今回の日本訪問は、レナーテさんと、その一つ年上のお姉さんクリステルさんを伴ってのものでした。
義理のお姉さんにとっては初めての日本で、葉子さんにとっては、いろいろと気を遣うところもあったのではないかと拝察しています。

金沢のご宿泊先として選んで頂いたこのあかつき屋。事前には、ドイツの(義理の)お姉さんとともにお越しになるとはうかがっていましたが、背後にこんな物語があるとは、びっくり。

ご宿泊中は、ゆっくりとお過ごしになり、この町家の魅力を満喫されたようでした。朝は近くの喫茶店からモーニングセットを出前してもらい、お庭を楽しみながら、お食事されました。

一期一会。日々気を緩めることなく、お客様と相対しているつもりですが、このようなお客様と出会いますと、震えるような心持ちになり、一段と身が引き締まります。

金沢・あかつき屋での時間が、お客様にとって、最良の時になるよう、一層精進したいと思います。

葉子さん、貴重なお話本当にありがとうございました。

イタリア人牧師、伝説の少年と交流していた!

先月末、イタリア出身の大叔父さんの面影を探しに、イタリアからあかつき屋にお泊りになった従兄妹さんらの金沢滞在の話が、新たな展開を見せました。

生前、金沢・三馬教会で牧師をされていた彼らイタリア人の大叔父さんが、伝説のバイク少年と交流していたことが分かったのです。これは、このブログの読者の方からもたらされた話です。

イタリア人牧師とバイク少年との交流は、その少年・浮谷東次郎が著した『がむしゃら1500キロ』(ちくま文庫)で詳しく記されています。
浮谷少年、イタリア人牧師との交流後、レーサーになり、サーキットで練習中事故死するという、悲運の生涯を送っています。
その少年とふれあったイタリア人牧師のご親族が、あかつき屋に宿泊された奇縁に、驚きと深い感慨を覚えています。

(エンリコ牧師と伝説のバイク少年とのふれあいが綴られている『がむしゃら1500キロ』
  =このブログの読者の方がご紹介、「ありがとうございました」筆者)
0922hon01.jpg

『がむしゃら1500キロ』という本は、このブログ読者の方からおしえて頂きました。その本によると、1957年、当時中学三年生だった浮谷少年が、高校入試を控えた夏休み、自分への挑戦の意味を込めて、自宅のある千葉県市川と大阪間を50CCのバイクで往復の旅に出発したのでした。

その大阪からの帰り道、名古屋に近づいた頃、やはりバイクで移動中のイタリア人のエリンコさんと出会ったのでした。このエリンコさんが、過日あかつき屋にお泊りになったイタリア人従兄妹さんの大叔父さんで、当時金沢で宣教師をされていたのでした。

その本では、浮谷少年とエリンコ牧師との交流が、かなり詳しく書かれています。二人は道すがら食堂で一緒にカレーライスを食べたこと、そして、浮谷少年はエリンコ牧師の厚意で、牧師が関係する名古屋の教会の寮に無料で泊まったことなどが、綴られています。

(生前のエンリコ牧師
 =あかつき屋にご宿泊されたイタリアからのお客様ご提供写真)
0922ooojisan01.jpg

その間の二人の交流からは、エリンコ牧師が、とてもおおらかで懐が深く、また日本そして金沢を愛していることがよく分かりました。

これは、大叔父さんの面影を探しに、あかつき屋にお泊りになったイタリア人従兄妹さんらの回想と全く一致するものでした。
この本からも、大叔父さんであるエリンコ牧師の人間の大きさがうかがえ、大叔父さんの人となりを慕い、はるばるイタリアからご親族が金沢にやって来たのも十分うなずけました。

一方、浮谷少年はその後渡米し、帰国後レーサーになったものの、1965年に鈴鹿サーキットで練習中、事故で無念の死を遂げています。なんという顛末でしょう。

お宿業に携わっていると、様々な人と出会い、その方の人間的な魅力にふれたり、社会や世界の動きを生で感じることが少なくありません。

今回のイタリア人のお客様の周辺に、こんな秘話があるとは。人の世の深遠さと広がりに思いをいたさざるを得ず、改めてお宿業の意義をかみしめています。